2013年04月28日
野村流音楽協会組踊地謡研修部自主公演:「朝薫五番」一挙上演
2013年4月7日,うるま市民芸術劇場響ホールにて,野村流音楽協会組踊地謡研修部自主公演として,「朝薫五番」が一挙上演された.その寸評を箇条書きする.
まず,前座での,朝薫五番の全体案内説明は,いかにも組踊らしくなく,冗長過ぎた."芝居士ぬ如るあゆる"との声が聞こえた.簡潔さと楽しさのバランスが必要だった.
1. 銘苅子
銘苅子出羽の笛が良くなかった.緊張のせいか音切れなどで,羽衣も降りてくるような,爽やかな雰囲気が出せなかった.通水節の歌い出しで,歌三線の1名の合図の首の上下振りが目立ち過ぎた.東江節の独唱部分”アーキー"が細過ぎる声で,悲愴さが表現できていなかった.子持節も声が細く高過ぎた.終幕の立雲節も,声が細く高い.そのような甲高く細い声での組踊の歌三線は違和感があり,静寂感が創出できない.子役おめけりの唱えは高さおよびボリュームとても良かった.残念ながら,立方には,遥かに及ばない地謡の歌唱レベルであった.
2. 執心鐘入
干瀬節1,干瀬節2の歌い出しが致命的な音程狂いで始まった.それに加えて,声も充分歌いこなしていないそれであった.干瀬節の歌われる時の太鼓の囃子は不要であった.歌三線5名の頭の傾きがバラバラであった.独唱でまともに歌ったのは干瀬節3と散山節だけで,それに,いずれも声が細く強烈さに欠けていた.鬼女出現時の笛の音切れはひどかった.全体として,冒頭から躓きが続いては,力の発揮しようがなかった.これも充分歌いこなしていなかったことによる.残念ながら,この地謡のレベルは低すぎた.
3. 女物狂
子持節1は高音で裏声のように響いた.子持節3も声が細く高かった.一方,散山節と“アーキー”は素晴らしい歌三線であった.また,終幕の立雲節も素晴らしかった.
4. 孝行の巻
おめけりとおめなりの唱えはあまりにも高音で,組踊のそれとは思えなかった.大蛇出現時に観音像が途中まで2度も降りてきて留まっていたのは操作誤りだった.姉弟の唱えと終幕屋慶名節の歌い出しの音程狂いに眼をつぶれば,全体的に,立方と地謡のまとまった組踊ではあった.
5. 二童敵討
冒頭出羽の按司手事は,弾きだしが不揃いであった.すき節歌い出し時に,首を上下に振る合図が目立った.仲村渠節2番手の歌三線は充分歌いこなしていない.散山節も歌い込み不足で,声が未熟であった.その節にとって大事な“当て”も無し,“ゐし”も無しだった.まだ工工四のそれらの表記が見えていないようだ.また,後半の弦間違いは致命的な類いであった.伊野波節は声量があり,良かった.全体として,この歌三線も,充分歌いこなしているとは言いがたいレベルであった.立ち方について,あまおへは動きがやや老人のようで,時の権力者に成り上がろうとする者の覇気があまり強烈には現れていなかった.
結びに,"五番"一挙上演に関して,全体的な感想を述べる.
立ち方について,組踊地謡研修部の伝統的な方式である(今回の“女物狂”は例外であったが) 組踊研究所ごとに分かれて,一番毎の担当をお願いするのではなく,5研究所に立ち方の合同編成を依頼すると,もっと五番の素晴らしさが現れると期待できる.ぜひこの方式を立ち方の研究所に持ちかけて欲しい.
地謡の研修については,指導者はもっと厳しさが必要であり、地謡は訓練を重ねて体で歌三線をやるのであり,頭と声で歌うのではないことを認識して,鍛錬して欲しい.
まず,前座での,朝薫五番の全体案内説明は,いかにも組踊らしくなく,冗長過ぎた."芝居士ぬ如るあゆる"との声が聞こえた.簡潔さと楽しさのバランスが必要だった.
1. 銘苅子
銘苅子出羽の笛が良くなかった.緊張のせいか音切れなどで,羽衣も降りてくるような,爽やかな雰囲気が出せなかった.通水節の歌い出しで,歌三線の1名の合図の首の上下振りが目立ち過ぎた.東江節の独唱部分”アーキー"が細過ぎる声で,悲愴さが表現できていなかった.子持節も声が細く高過ぎた.終幕の立雲節も,声が細く高い.そのような甲高く細い声での組踊の歌三線は違和感があり,静寂感が創出できない.子役おめけりの唱えは高さおよびボリュームとても良かった.残念ながら,立方には,遥かに及ばない地謡の歌唱レベルであった.
2. 執心鐘入
干瀬節1,干瀬節2の歌い出しが致命的な音程狂いで始まった.それに加えて,声も充分歌いこなしていないそれであった.干瀬節の歌われる時の太鼓の囃子は不要であった.歌三線5名の頭の傾きがバラバラであった.独唱でまともに歌ったのは干瀬節3と散山節だけで,それに,いずれも声が細く強烈さに欠けていた.鬼女出現時の笛の音切れはひどかった.全体として,冒頭から躓きが続いては,力の発揮しようがなかった.これも充分歌いこなしていなかったことによる.残念ながら,この地謡のレベルは低すぎた.
3. 女物狂
子持節1は高音で裏声のように響いた.子持節3も声が細く高かった.一方,散山節と“アーキー”は素晴らしい歌三線であった.また,終幕の立雲節も素晴らしかった.
4. 孝行の巻
おめけりとおめなりの唱えはあまりにも高音で,組踊のそれとは思えなかった.大蛇出現時に観音像が途中まで2度も降りてきて留まっていたのは操作誤りだった.姉弟の唱えと終幕屋慶名節の歌い出しの音程狂いに眼をつぶれば,全体的に,立方と地謡のまとまった組踊ではあった.
5. 二童敵討
冒頭出羽の按司手事は,弾きだしが不揃いであった.すき節歌い出し時に,首を上下に振る合図が目立った.仲村渠節2番手の歌三線は充分歌いこなしていない.散山節も歌い込み不足で,声が未熟であった.その節にとって大事な“当て”も無し,“ゐし”も無しだった.まだ工工四のそれらの表記が見えていないようだ.また,後半の弦間違いは致命的な類いであった.伊野波節は声量があり,良かった.全体として,この歌三線も,充分歌いこなしているとは言いがたいレベルであった.立ち方について,あまおへは動きがやや老人のようで,時の権力者に成り上がろうとする者の覇気があまり強烈には現れていなかった.
結びに,"五番"一挙上演に関して,全体的な感想を述べる.
立ち方について,組踊地謡研修部の伝統的な方式である(今回の“女物狂”は例外であったが) 組踊研究所ごとに分かれて,一番毎の担当をお願いするのではなく,5研究所に立ち方の合同編成を依頼すると,もっと五番の素晴らしさが現れると期待できる.ぜひこの方式を立ち方の研究所に持ちかけて欲しい.
地謡の研修については,指導者はもっと厳しさが必要であり、地謡は訓練を重ねて体で歌三線をやるのであり,頭と声で歌うのではないことを認識して,鍛錬して欲しい.
2012年03月15日
GIKAN組踊悲劇「悲恋しょんがない節」初公演
12月29日初公演のGIKAN組踊喜劇「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」に続き,GIKAN組踊悲劇「悲恋しょんがない節」の初公演が3月13日国立劇場おきなわにて行われた.
「悲恋しょんがない節」は,舞台中央にセットされた組踊舞台にはおさまらない,組踊あり,芝居あり,歌劇ありの,新しい沖縄劇に仕上がっていた.地謡と多くの「在沖与那国郷友芸能愛好会」の方々を含めた立ち方は,与那国の天・地・人を舞台に再現していた.
組踊,悲劇(tragedy)との関係でいくつか箇条書き的に述べる.
(1)橋懸りを含む組踊舞台をセットしているが.その必要性は感じなかった.むしろセットしないほうが組踊舞台も含めて,舞台がより広くなり,島民の祭のシーンはもっと大きくなったであろう.
(2)ヒロイン,カナシーの沖縄芝居的な甲高い唱えは,他の立ち方の組踊的な唱えとは,あまりに異質で,対照をなしていたことは,結果として,本劇の組踊的な要素を薄めることになる.
(3)「ロミオとジュリエット」あるいは,「曽根崎心中」にしても,絶望・悲惨・憂鬱が舞台を占拠する.ところが本劇の場合は,むしろ明るい未来がすぐここに現れるようで,悲劇のリアリティが連想できない舞台であった.比較のため思い浮かべたのは,組踊「手水の縁」の知念浜における玉津の刑直前までの舞台と,歌劇「奥山の牡丹」終幕近くの母・息子再会の後に母親が自殺する舞台である.
(4)あの世でともに幸せそうなカナシーとマカルーが,再び現れることもTragedyの重みを減じてしまっている.観るものは,悲嘆に沈んだ気持ちにはならない.それは二人の復活があったからである.
(5)組踊的に唱えをすれば,組踊になるわけではないので,本劇を「新作組踊」とカテゴライズすることには無理がある.また,タイトルとしてプログラム等に
組踊悲劇 「悲恋しょんがない節」
異聞・与那国島の恋物語
と印刷し,固定しているかと思うと,ティケットには,
組踊悲劇 「悲恋しょんがない節」
異聞・久部良バリ心中
とある.作者自身がころころと変えているとは想像しがたいけれども,タイトルが冗長的でもあり,組踊的では全くない.組踊,歌劇や芝居のように,簡潔なタイトルが望ましい.例えば,「悲恋しょんがない」だけでも,適当な気がする.
(6)将来この劇の公演のたびに,今回のように大勢の出演者が必要とされるのなら,そう頻繁にはできないであろう.それにしても,全体として,この新しい、スケールの大きい琉球劇の誕生を大いに喜びたい.
演出:三隅 治雄
監修:玉城 節子
地謡統括:城間 徳太郎
立方統括:玉城 節子
音楽・演出助手:高江洲 義寛
琉歌・琉球語:玉城 正治
神女・子供芸能指導:宮城 葉子
与那国芸能統括:真地 利尚
出演協力:在沖与那国郷友芸能愛好会
配役
カナシー:小嶺 和佳子
マカルー:東江 裕吉
カナシーの父親:具志 幸大
カナシーの母親:花城 富士子
大主(首里役人):宇座 仁一
地頭代:石川 直也
村の男:玉城 匠,天願 雄一
ちょうちゃく持ち:高宮城 実人
村祭りの男・女:20名
神女:宮城 葉子,他2名
棒術:4名
舞踊(与那国の猫小):4名
地謡
歌・三線:花城 英樹,横目 大哉
箏・十七弦:具志 幸大
笛:豊里 美保
太鼓:高宮城 実人
箏:宮城歌那乃
「悲恋しょんがない節」は,舞台中央にセットされた組踊舞台にはおさまらない,組踊あり,芝居あり,歌劇ありの,新しい沖縄劇に仕上がっていた.地謡と多くの「在沖与那国郷友芸能愛好会」の方々を含めた立ち方は,与那国の天・地・人を舞台に再現していた.
組踊,悲劇(tragedy)との関係でいくつか箇条書き的に述べる.
(1)橋懸りを含む組踊舞台をセットしているが.その必要性は感じなかった.むしろセットしないほうが組踊舞台も含めて,舞台がより広くなり,島民の祭のシーンはもっと大きくなったであろう.
(2)ヒロイン,カナシーの沖縄芝居的な甲高い唱えは,他の立ち方の組踊的な唱えとは,あまりに異質で,対照をなしていたことは,結果として,本劇の組踊的な要素を薄めることになる.
(3)「ロミオとジュリエット」あるいは,「曽根崎心中」にしても,絶望・悲惨・憂鬱が舞台を占拠する.ところが本劇の場合は,むしろ明るい未来がすぐここに現れるようで,悲劇のリアリティが連想できない舞台であった.比較のため思い浮かべたのは,組踊「手水の縁」の知念浜における玉津の刑直前までの舞台と,歌劇「奥山の牡丹」終幕近くの母・息子再会の後に母親が自殺する舞台である.
(4)あの世でともに幸せそうなカナシーとマカルーが,再び現れることもTragedyの重みを減じてしまっている.観るものは,悲嘆に沈んだ気持ちにはならない.それは二人の復活があったからである.
(5)組踊的に唱えをすれば,組踊になるわけではないので,本劇を「新作組踊」とカテゴライズすることには無理がある.また,タイトルとしてプログラム等に
組踊悲劇 「悲恋しょんがない節」
異聞・与那国島の恋物語
と印刷し,固定しているかと思うと,ティケットには,
組踊悲劇 「悲恋しょんがない節」
異聞・久部良バリ心中
とある.作者自身がころころと変えているとは想像しがたいけれども,タイトルが冗長的でもあり,組踊的では全くない.組踊,歌劇や芝居のように,簡潔なタイトルが望ましい.例えば,「悲恋しょんがない」だけでも,適当な気がする.
(6)将来この劇の公演のたびに,今回のように大勢の出演者が必要とされるのなら,そう頻繁にはできないであろう.それにしても,全体として,この新しい、スケールの大きい琉球劇の誕生を大いに喜びたい.
演出:三隅 治雄
監修:玉城 節子
地謡統括:城間 徳太郎
立方統括:玉城 節子
音楽・演出助手:高江洲 義寛
琉歌・琉球語:玉城 正治
神女・子供芸能指導:宮城 葉子
与那国芸能統括:真地 利尚
出演協力:在沖与那国郷友芸能愛好会
配役
カナシー:小嶺 和佳子
マカルー:東江 裕吉
カナシーの父親:具志 幸大
カナシーの母親:花城 富士子
大主(首里役人):宇座 仁一
地頭代:石川 直也
村の男:玉城 匠,天願 雄一
ちょうちゃく持ち:高宮城 実人
村祭りの男・女:20名
神女:宮城 葉子,他2名
棒術:4名
舞踊(与那国の猫小):4名
地謡
歌・三線:花城 英樹,横目 大哉
箏・十七弦:具志 幸大
笛:豊里 美保
太鼓:高宮城 実人
箏:宮城歌那乃
2012年02月01日
国立劇場おきなわ平成24年1月公演:「執心鐘入」と「手水の縁」
国立劇場おきなわ平成24年1月公演において,「執心鐘入」と「手水の縁」が演じられた.
それぞれについて,手短にコメントする.
まず第一部「執心鐘入」について,立ち方は(1)若松・宿の女は良い演技を見せていた.(2)座主は若松が助けを求めて来る場面で,座主の落ち着きが感じられず,唱えも一瞬切れてしまった.また,声が細く,座主のそれには合わない様子であった.(3)練習不足のせいなのか,小僧三人の同時進行の演技がスムーズではなく,ぎこちなかった.
地謡の(1)歌・三線は,これも練習不足のせいか,どっしりとした荘重さがなかった.珍しいことに,二番目の干瀬節を音程狂いで歌い出し,回復できない状態で歌い続けた.もう一人が応援で歌ったけれども,その二人の三線が調和していなかった.さらに,終幕近くの散山節にも野村流の荘重さは聴けなかった.(2)終幕における太鼓の囃子は止めたほうが組踊としては趣がある.座主・小僧達の必死の祈りが掻き消されてしまう.通常は,歌・三線でさえ,唱えの間は小さく弾き・歌うことになっている.
立ち方指導:金城 清一
配役
中城若松:西門 悠雅
宿の女:田口 博章
座主:金城 清一
小僧一:上江洲 勝
小僧二:阿嘉 修
小僧三:呉屋 智
地謡
歌・三線:銘苅 盛隆,糸数 昌治,吉元 博昌,吉野 久一
筝:米須 幸子
笛:金城 裕幸
胡弓:当間 嗣友
太鼓:國場 秀治
次に第二部「手水の縁」について,立ち方は,山戸・玉津をはじめ,山口の西掟・志喜屋の大屋子が一体となり,聴く人・観る人の涙を誘う素晴らしい演技を見せていた.
地謡は立ち方と比較して,やや物足りなく,声には,「手水の縁」に相応しい強烈さの部分が足りなかった.
立ち方指導:比嘉 良雄
配役
波平山戸:嘉数 道彦
盛小屋の真玉津:佐辺 良和
志喜屋の大屋子:宇座 仁一
山口の西掟:金城 陽一
門番:仲村 圭央
地謡
歌・三線:宮城 康明,宮原 弘和,宇栄原 宗勝,喜瀬 学
筝:宮城 秀子
笛:仲田 治巳
胡弓:新城 清弘
太鼓:喜舎場 盛勝
それぞれについて,手短にコメントする.
まず第一部「執心鐘入」について,立ち方は(1)若松・宿の女は良い演技を見せていた.(2)座主は若松が助けを求めて来る場面で,座主の落ち着きが感じられず,唱えも一瞬切れてしまった.また,声が細く,座主のそれには合わない様子であった.(3)練習不足のせいなのか,小僧三人の同時進行の演技がスムーズではなく,ぎこちなかった.
地謡の(1)歌・三線は,これも練習不足のせいか,どっしりとした荘重さがなかった.珍しいことに,二番目の干瀬節を音程狂いで歌い出し,回復できない状態で歌い続けた.もう一人が応援で歌ったけれども,その二人の三線が調和していなかった.さらに,終幕近くの散山節にも野村流の荘重さは聴けなかった.(2)終幕における太鼓の囃子は止めたほうが組踊としては趣がある.座主・小僧達の必死の祈りが掻き消されてしまう.通常は,歌・三線でさえ,唱えの間は小さく弾き・歌うことになっている.
立ち方指導:金城 清一
配役
中城若松:西門 悠雅
宿の女:田口 博章
座主:金城 清一
小僧一:上江洲 勝
小僧二:阿嘉 修
小僧三:呉屋 智
地謡
歌・三線:銘苅 盛隆,糸数 昌治,吉元 博昌,吉野 久一
筝:米須 幸子
笛:金城 裕幸
胡弓:当間 嗣友
太鼓:國場 秀治
次に第二部「手水の縁」について,立ち方は,山戸・玉津をはじめ,山口の西掟・志喜屋の大屋子が一体となり,聴く人・観る人の涙を誘う素晴らしい演技を見せていた.
地謡は立ち方と比較して,やや物足りなく,声には,「手水の縁」に相応しい強烈さの部分が足りなかった.
立ち方指導:比嘉 良雄
配役
波平山戸:嘉数 道彦
盛小屋の真玉津:佐辺 良和
志喜屋の大屋子:宇座 仁一
山口の西掟:金城 陽一
門番:仲村 圭央
地謡
歌・三線:宮城 康明,宮原 弘和,宇栄原 宗勝,喜瀬 学
筝:宮城 秀子
笛:仲田 治巳
胡弓:新城 清弘
太鼓:喜舎場 盛勝
2012年01月13日
国立劇場おきなわ新年1月企画公演:新作組踊「サシバの契り」
新年1月12日(木)に国立劇場おきなわ平成24年1月企画公演において,新作組踊「サシバの契り」が演じられた.
立ち方ウミワカ(元海賊),カナスミガ(サシバの精),マサムイ(島の若者のリーダー),島人(x3),海賊(x3),各々が素晴らしい演技を見せた.特に,カナスミの演技は組踊的な唱え・舞は完璧なほどであり,その美しさはまさに妖精のようであった.
この歌舞劇「サシバの契り」を,組踊に再構成するには,多くの様々な要素が含まれ過ぎていて,もう組踊にすることは諦めて,組踊的な歌舞劇の1つに留まるのが良いと考える.
場面・背景・照明の浜辺と月夜は具体的,幻想的そのもので,その中で,全てを表現し,観る者は映画を観ているように,眼の前のそのままの現象を眺めているだけで良い.
時々唱えられる沖縄芝居の台詞,島人と海賊との戦い,激しい太鼓・銅鑼の響き,カナスミガの海賊に討たれる場面,花道,バックに流れる島人たちの声,ウミワカとカナスミガの触れ合うシーン,などで,系統的に抽象性を排し,組踊からは遠く離れていく演出にしている.
また組踊としては,特に必要とは思えないが,女性地謡一名が加わって,要となる二揚げ節のソロを担当していた.いつもの地謡グループだけでも同じ効果が得られたであろう.因みに,この女性地謡は声・歌が男声的で,全体を通して,場面の高揚を更に増幅させるに相応しい落ち着いた歌・三線で,見事でとても組踊的でもあった.ただ比較的短い節の息継ぎで歌い,また高音部にもう少し力強い声が欲しいところではあった.
新作劇「サシバの契り」は,歌舞劇としては成功裏にデビューしたと言える.
作:大城 立裕
演出:玉城 盛義
音楽:花城 英樹
振付:阿嘉 修
配役
ウミワカ:川満 香多
カナスミガ:佐辺 良和
マサムイ:天願 雄一
島人:呉屋 智,岸本 隼人,玉城 匠
海賊:池間 隼人,上江洲 勝,仲宗根 弘将
歌・三線:花城 英樹,玉城 和樹,横目 大通,島袋 奈美
筝:池間 北斗
笛:豊里 美保
胡弓:森田 夏子
太鼓:與儀 朋恵
立ち方ウミワカ(元海賊),カナスミガ(サシバの精),マサムイ(島の若者のリーダー),島人(x3),海賊(x3),各々が素晴らしい演技を見せた.特に,カナスミの演技は組踊的な唱え・舞は完璧なほどであり,その美しさはまさに妖精のようであった.
この歌舞劇「サシバの契り」を,組踊に再構成するには,多くの様々な要素が含まれ過ぎていて,もう組踊にすることは諦めて,組踊的な歌舞劇の1つに留まるのが良いと考える.
場面・背景・照明の浜辺と月夜は具体的,幻想的そのもので,その中で,全てを表現し,観る者は映画を観ているように,眼の前のそのままの現象を眺めているだけで良い.
時々唱えられる沖縄芝居の台詞,島人と海賊との戦い,激しい太鼓・銅鑼の響き,カナスミガの海賊に討たれる場面,花道,バックに流れる島人たちの声,ウミワカとカナスミガの触れ合うシーン,などで,系統的に抽象性を排し,組踊からは遠く離れていく演出にしている.
また組踊としては,特に必要とは思えないが,女性地謡一名が加わって,要となる二揚げ節のソロを担当していた.いつもの地謡グループだけでも同じ効果が得られたであろう.因みに,この女性地謡は声・歌が男声的で,全体を通して,場面の高揚を更に増幅させるに相応しい落ち着いた歌・三線で,見事でとても組踊的でもあった.ただ比較的短い節の息継ぎで歌い,また高音部にもう少し力強い声が欲しいところではあった.
新作劇「サシバの契り」は,歌舞劇としては成功裏にデビューしたと言える.
作:大城 立裕
演出:玉城 盛義
音楽:花城 英樹
振付:阿嘉 修
配役
ウミワカ:川満 香多
カナスミガ:佐辺 良和
マサムイ:天願 雄一
島人:呉屋 智,岸本 隼人,玉城 匠
海賊:池間 隼人,上江洲 勝,仲宗根 弘将
歌・三線:花城 英樹,玉城 和樹,横目 大通,島袋 奈美
筝:池間 北斗
笛:豊里 美保
胡弓:森田 夏子
太鼓:與儀 朋恵
2011年12月29日
「GIKANの組踊喜劇 親雲上八太郎と玉那覇クルルン」初公演
「GIKANの組踊喜劇 親雲上八太郎と玉那覇クルルン」初公演が12月28日(水)国立劇場おきなわ(大劇場)で催された.
組踊喜劇「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」は,簡潔で適切な演出・脚色により,傑作コメディと仕上がっていた.朝薫の「二童敵討」,朝敏の「手水の縁」から適当な場面・台詞を採り入れ,沖縄芝居,歌劇と自然に面白く融合して,八太郎の冒頭の唱えに始まり,一応のハッピーエンドまで,沖縄芝居のような明るい感動と笑いを巻き起こしていた.
その喜劇の中で,命は救われたけれども,また百姓に戻り,貧困と飢えが待っている状況に戻って行くだけで,絶対的なハッピーエンドではない.その可能性は終幕で姫君が八太郎たちを救い,二人が再会する場面で芽生えては来たけれども,二人は其々の違う身分に戻ることになってしまう.朝薫の組踊では,身分の違いなども必ず消滅するようなハッピーエンドになるのである.
少し違う観点からこの喜劇を見てみる.本コメディは,パンフレット,ティケットでも, 長い4行にわたるタイトルの劇である.そのタイトルの冗長性,具体性から, おそらくこのコメディは組踊ではないだろうと予想していたが,まさに,予想は的中した.
一枚のパンフレットには「組踊コミック」,「組踊喜劇」とあるので,「コミック組踊」,「喜劇組踊」は意図していないのであろうと思うと,ティケットには「新作組踊」公演実行委員会,「組踊喜劇」,「新作組踊喜劇」,「現代組踊②」とあり,困惑してしまった.このコメディを新作「組踊」,あるいは,コミック「組踊」と称しているのである.コミック「オペラ」と称されるオペラはあるのである.
今日の喜劇は,琉球王朝時代を背景とする新作コメディそのものである.その劇の良さは,立方の素晴らしい演技により,舞台上に自ずと創出していたことから,「新作組踊」と称する必要はないはずである.
唯,ここで指摘せざるを得ないのは,如何なる意図があって,「組踊コミック」,「組踊喜劇」,「新作組踊」,「新作組踊喜劇」,「現代組踊」などと,言葉の並びのマッサージで,漠然とした,別の意味を持つメッセージを伝えようとしているのだろうかということである.
演出・脚色の嘉数 道彦氏がプログラムに ” さて上演にあたり,まず述べておきたい事は,組踊喜劇「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」は,組踊ではないという事 ” と述べているように,「組踊」ではなく, ” 「組踊喜劇」という新しいジャンルの演劇 ” と捉えたい.少なくとも朝薫の組踊の世界には,明確な輪郭がある.同じプログラムに,他の3氏が,” 新組踊 ”,” 創作組踊 ” などと表現しているのは惜しいことである.
とまれ,組踊喜劇「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」は,これから度々演じられる,組踊喜劇の傑作の一つになるであろう.
監修:田中 英機
作・構成:GIKAN
琉球語訳:玉城 正治
演出・脚色:嘉数 道彦
舞踊構成:新崎 恵子
舞台監督:山城 譲二
キャスト
語り部:北村 三郎
薩摩琵琶:櫻井亜木子
親雲上八太郎:当銘 由亮
玉那覇クルルン:呉屋 かなめ
姫君:小嶺 和佳子
大主:宇座 仁一
共1:川満 香多
共2:玉城 匠
地謡
歌・三線:花城 英樹,横目 大哉
筝・十七絃:具志 幸大
笛:豊里 美保
太鼓:髙宮城 実人
日本筝:宮城歌那乃
組踊喜劇「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」は,簡潔で適切な演出・脚色により,傑作コメディと仕上がっていた.朝薫の「二童敵討」,朝敏の「手水の縁」から適当な場面・台詞を採り入れ,沖縄芝居,歌劇と自然に面白く融合して,八太郎の冒頭の唱えに始まり,一応のハッピーエンドまで,沖縄芝居のような明るい感動と笑いを巻き起こしていた.
その喜劇の中で,命は救われたけれども,また百姓に戻り,貧困と飢えが待っている状況に戻って行くだけで,絶対的なハッピーエンドではない.その可能性は終幕で姫君が八太郎たちを救い,二人が再会する場面で芽生えては来たけれども,二人は其々の違う身分に戻ることになってしまう.朝薫の組踊では,身分の違いなども必ず消滅するようなハッピーエンドになるのである.
少し違う観点からこの喜劇を見てみる.本コメディは,パンフレット,ティケットでも, 長い4行にわたるタイトルの劇である.そのタイトルの冗長性,具体性から, おそらくこのコメディは組踊ではないだろうと予想していたが,まさに,予想は的中した.
一枚のパンフレットには「組踊コミック」,「組踊喜劇」とあるので,「コミック組踊」,「喜劇組踊」は意図していないのであろうと思うと,ティケットには「新作組踊」公演実行委員会,「組踊喜劇」,「新作組踊喜劇」,「現代組踊②」とあり,困惑してしまった.このコメディを新作「組踊」,あるいは,コミック「組踊」と称しているのである.コミック「オペラ」と称されるオペラはあるのである.
今日の喜劇は,琉球王朝時代を背景とする新作コメディそのものである.その劇の良さは,立方の素晴らしい演技により,舞台上に自ずと創出していたことから,「新作組踊」と称する必要はないはずである.
唯,ここで指摘せざるを得ないのは,如何なる意図があって,「組踊コミック」,「組踊喜劇」,「新作組踊」,「新作組踊喜劇」,「現代組踊」などと,言葉の並びのマッサージで,漠然とした,別の意味を持つメッセージを伝えようとしているのだろうかということである.
演出・脚色の嘉数 道彦氏がプログラムに ” さて上演にあたり,まず述べておきたい事は,組踊喜劇「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」は,組踊ではないという事 ” と述べているように,「組踊」ではなく, ” 「組踊喜劇」という新しいジャンルの演劇 ” と捉えたい.少なくとも朝薫の組踊の世界には,明確な輪郭がある.同じプログラムに,他の3氏が,” 新組踊 ”,” 創作組踊 ” などと表現しているのは惜しいことである.
とまれ,組踊喜劇「親雲上八太郎と玉那覇クルルン」は,これから度々演じられる,組踊喜劇の傑作の一つになるであろう.
監修:田中 英機
作・構成:GIKAN
琉球語訳:玉城 正治
演出・脚色:嘉数 道彦
舞踊構成:新崎 恵子
舞台監督:山城 譲二
キャスト
語り部:北村 三郎
薩摩琵琶:櫻井亜木子
親雲上八太郎:当銘 由亮
玉那覇クルルン:呉屋 かなめ
姫君:小嶺 和佳子
大主:宇座 仁一
共1:川満 香多
共2:玉城 匠
地謡
歌・三線:花城 英樹,横目 大哉
筝・十七絃:具志 幸大
笛:豊里 美保
太鼓:髙宮城 実人
日本筝:宮城歌那乃
2011年12月26日
「現代版組踊 玉城朝薫伝 ~組踊の誕生~」公演
「琉球浪漫シアター 現代版組踊 玉城朝薫伝 ~組踊の誕生~」公演が12月25日(日)那覇市民会館中ホールで催された.
出演は那覇青少年舞台プログラムのメンバーに加え特別出演の総勢40余名であった.
玉城朝薫が当時の大和芸能の影響を受け,琉球王朝の舞踊を組踊として,組み立て,創り上げる歴史的過程を「ミュージカル」として表現したものである.
組踊の創造過程そのものは,あまり明示的には演じられていないけれども,「ダンシング」あるいは「ミュージカル」として,楽しい歌とダンスが繰り広げられた.特に,終幕近く,群舞の中,朝薫による琉球舞踊,空手,エーサーを融合したダイナミックな「ダンス」は感動的であった.
数年前大反響を呼んだ,感動的なミュージカル「肝高の阿麻和利」と同じく,決して「組踊」ではないけれども,「玉城朝薫伝」も「現代版組踊」と称して反響を呼びつつある.
これまでニューズメディアも,公演ティケット,パンフレットにも,「現代版組踊」を「組踊」と並べて,あたかも実体があるかのように用いて来た.
想像するに,「現代版」は「組踊」を修飾するのではなく,切り離さず「現代版組踊」は一句としてコイン(coin)され,普通なら「ミュージカル」でも良いのに,曖昧であるけれども,衆目を捉える「現代版組踊」的な「ミュージカル」と敢えて表現し続けているのである.
「現代版組踊」には参照する実体は無いに違いない.「組踊」と言う実体にぼんやりと関係づける何かがあると言うだけでは,「組踊」ではあり得ないのである,そして,それを明白に承知で,イメージ創りにうまく活用している.
奇妙なことに,「現代版組踊」を演じている青少年たちは,決して「組踊」を演じているとは思っていない.おそらく,「ミュージカル」を踊っている(ダンシング)と思っているであろう.
いみじくも,朝薫は,そのミュージカルの終幕に “浦添市の国立劇場おきなわで,朝薫の「組踊」を鑑賞できます” と呼びかけていた.
「現代版組踊」は,今では,トレードマーク的にあちらこちらで使われている.意味不明のまま,既に鋳造された格好のキャッチフレーズとして,メディアがこのまま安易に使い続けていくと,「現代版組踊」は動いている煙の輪郭の様に,すごく曖昧な言葉となっていくであろう.トレードマークとしてはともかく,演劇に関わる人たちは,その意味不明な言葉の一般的な使用を自然に止めるべきであろう.
主催:一般社団法人 TAO Factory, (株) 琉球トライアウト
出演は那覇青少年舞台プログラムのメンバーに加え特別出演の総勢40余名であった.
玉城朝薫が当時の大和芸能の影響を受け,琉球王朝の舞踊を組踊として,組み立て,創り上げる歴史的過程を「ミュージカル」として表現したものである.
組踊の創造過程そのものは,あまり明示的には演じられていないけれども,「ダンシング」あるいは「ミュージカル」として,楽しい歌とダンスが繰り広げられた.特に,終幕近く,群舞の中,朝薫による琉球舞踊,空手,エーサーを融合したダイナミックな「ダンス」は感動的であった.
数年前大反響を呼んだ,感動的なミュージカル「肝高の阿麻和利」と同じく,決して「組踊」ではないけれども,「玉城朝薫伝」も「現代版組踊」と称して反響を呼びつつある.
これまでニューズメディアも,公演ティケット,パンフレットにも,「現代版組踊」を「組踊」と並べて,あたかも実体があるかのように用いて来た.
想像するに,「現代版」は「組踊」を修飾するのではなく,切り離さず「現代版組踊」は一句としてコイン(coin)され,普通なら「ミュージカル」でも良いのに,曖昧であるけれども,衆目を捉える「現代版組踊」的な「ミュージカル」と敢えて表現し続けているのである.
「現代版組踊」には参照する実体は無いに違いない.「組踊」と言う実体にぼんやりと関係づける何かがあると言うだけでは,「組踊」ではあり得ないのである,そして,それを明白に承知で,イメージ創りにうまく活用している.
奇妙なことに,「現代版組踊」を演じている青少年たちは,決して「組踊」を演じているとは思っていない.おそらく,「ミュージカル」を踊っている(ダンシング)と思っているであろう.
いみじくも,朝薫は,そのミュージカルの終幕に “浦添市の国立劇場おきなわで,朝薫の「組踊」を鑑賞できます” と呼びかけていた.
「現代版組踊」は,今では,トレードマーク的にあちらこちらで使われている.意味不明のまま,既に鋳造された格好のキャッチフレーズとして,メディアがこのまま安易に使い続けていくと,「現代版組踊」は動いている煙の輪郭の様に,すごく曖昧な言葉となっていくであろう.トレードマークとしてはともかく,演劇に関わる人たちは,その意味不明な言葉の一般的な使用を自然に止めるべきであろう.
主催:一般社団法人 TAO Factory, (株) 琉球トライアウト
2011年10月06日
伊良波尹吉生誕125周年記念名作歌劇「奥山の牡丹」公演
9月30日(金)与那原町社会福祉センタにおいて,伊良波尹吉生誕125周年記念名作歌劇「奥山の牡丹」公演が開催された.
悲劇的な結末に終わる歌劇「奥山の牡丹」は,会場の人々と場面が変わるごとに感動:笑い,拍手,涙を共有していた.
作者伊良波尹吉は組踊「手水の縁」,「花売の縁」,「萬歳敵討」,「孝行の巻」等 の場面をうまく組み合わせて感動的な歌劇に創り変えている.この歌劇「奧山の牡丹」の公演について感想を述べる.
先ず,二名の歌三線の若い地謡は,淡々と,時には激しく,時には静かに,三線のみ,あるいは歌・三線で,この歌劇に相応しい唱と調子で心憎く演じていた.素晴らしい歌劇地謡を担っており,これから更に経験を積み重ね,新たな境地へと飛躍を期待したい.
立ち方の中で,山戸が,これまた心憎いほど余裕のある声と歌で観客を最後まで魅了し続けた.
チラ―,三良,そして総聞は,もう少し歌声に力強さが増せば,余裕のある,さらに感動的な歌になる.
馬舞者はボリュームのある声で観客を楽しませていた.
これまで歌劇と言うと,いつも聴きなれていた,聴く者の喉が苦しくなるほどのギリギリ高い声を思い出すが,まさにそのような歌で,アヤ―と乳母は,甲高い台詞とともに,笑いと涙の感動を呼び起こしていた.
これからは順次,新しい世代へと継承の役割を担う若い舞台女優は,女役を歌う際は,やはり歌劇なので,オペラにおけるソプラノ歌手の如く,余裕を持って熱唱できるよう声の鍛錬を積むよう望まれる.
惜しいことに,主の前の歌声は,あまりにもか弱く,ほとんど歌劇の歌にはなっていなかった.妾をとるほどの父親なので,若さはまだ少しばかりは残っているはずである.
観る者に感動を与えるには「作品が良いこと」と「出演者が良いこと」が要求される.今回の歌劇「奧山の牡丹」は会場全体を動かしていた.
歌劇「奧山の牡丹」
配役
勢頭の頭: 仲嶺 眞永
チラー: 伊良波 さゆき
三良: 佐辺 良和
主の前: 平良 進
アヤ―: 伊良波 冴子
妾: 中村 志津子
総聞: 嘉数 道彦
郎党: 天願 雄一, 西門 悠雅
京太郎: 真栄田 文子, 照屋 正江, 神谷 三千代
馬舞者: 仲嶺 眞永(二役), 高宮城 実人
山戸: 金城 真次
高良の父: 当銘 由亮
真玉津: 知念 亜希
乳母: 瀬名波 孝子
地謡
歌三線: 平田 旭, 喜納 吏一
笛: 入嵩西 諭
悲劇的な結末に終わる歌劇「奥山の牡丹」は,会場の人々と場面が変わるごとに感動:笑い,拍手,涙を共有していた.
作者伊良波尹吉は組踊「手水の縁」,「花売の縁」,「萬歳敵討」,「孝行の巻」等 の場面をうまく組み合わせて感動的な歌劇に創り変えている.この歌劇「奧山の牡丹」の公演について感想を述べる.
先ず,二名の歌三線の若い地謡は,淡々と,時には激しく,時には静かに,三線のみ,あるいは歌・三線で,この歌劇に相応しい唱と調子で心憎く演じていた.素晴らしい歌劇地謡を担っており,これから更に経験を積み重ね,新たな境地へと飛躍を期待したい.
立ち方の中で,山戸が,これまた心憎いほど余裕のある声と歌で観客を最後まで魅了し続けた.
チラ―,三良,そして総聞は,もう少し歌声に力強さが増せば,余裕のある,さらに感動的な歌になる.
馬舞者はボリュームのある声で観客を楽しませていた.
これまで歌劇と言うと,いつも聴きなれていた,聴く者の喉が苦しくなるほどのギリギリ高い声を思い出すが,まさにそのような歌で,アヤ―と乳母は,甲高い台詞とともに,笑いと涙の感動を呼び起こしていた.
これからは順次,新しい世代へと継承の役割を担う若い舞台女優は,女役を歌う際は,やはり歌劇なので,オペラにおけるソプラノ歌手の如く,余裕を持って熱唱できるよう声の鍛錬を積むよう望まれる.
惜しいことに,主の前の歌声は,あまりにもか弱く,ほとんど歌劇の歌にはなっていなかった.妾をとるほどの父親なので,若さはまだ少しばかりは残っているはずである.
観る者に感動を与えるには「作品が良いこと」と「出演者が良いこと」が要求される.今回の歌劇「奧山の牡丹」は会場全体を動かしていた.
歌劇「奧山の牡丹」
配役
勢頭の頭: 仲嶺 眞永
チラー: 伊良波 さゆき
三良: 佐辺 良和
主の前: 平良 進
アヤ―: 伊良波 冴子
妾: 中村 志津子
総聞: 嘉数 道彦
郎党: 天願 雄一, 西門 悠雅
京太郎: 真栄田 文子, 照屋 正江, 神谷 三千代
馬舞者: 仲嶺 眞永(二役), 高宮城 実人
山戸: 金城 真次
高良の父: 当銘 由亮
真玉津: 知念 亜希
乳母: 瀬名波 孝子
地謡
歌三線: 平田 旭, 喜納 吏一
笛: 入嵩西 諭
2011年10月05日
組踊・舞踊地謡研修部合同公演 その2
組踊 「執心鐘入」
配役
中城若松: 山内 小夜
宿の女: 上地 美智子
座主: 阿嘉 修
小僧1: 糸満 盛幸
小僧2: 大城 常政
小僧3: 平敷 勇也
後見: 上地 元美,大城 沙都稀
歌・三線
山城 艶子,比嘉シゲ子,倉原 智子,
山城 綾子,松川 治美,小谷 恵理子
組踊 「万歳敵討」
配役
謝名の子: 東江 裕吉
慶雲: 新垣 悟
高平良御鎖: 嘉手苅林一
妻: 糸数 昌益
娘: 玉城 匠
列女1: 田口 博章
列女2: 岸本 隼人
共1: 呉屋 智
共2: 知花 令磨
通行人: 石川 直也
きょうきゃく持: 金城 裕斗
歌・三線
東江 司, 赤嶺 勝巳, 新垣 和則, 大城 松栄,
比嘉 剛, 渡慶次 淳, 仲田 知広, 比嘉 啓太
2011年10月05日
組踊・舞踊地謡研修部合同公演 その1
9月25日(日)読谷村文化センタ鳳ホールにおいて,恒例の野村流音楽協会組踊・舞踊地謡研修部第26回合同発表会が開催された.組踊2題:「執心鐘入」と「萬歳敵討」について感想を述べる.
先ず,「執心鐘入」について述べる.結論から言うと,色々な見地から「組踊とは」と問いたい気持ちになった. 即座に思いつく言葉は,直接的には,「台詞」,「踊」,「歌・三線」であり,間接的には,「形式」,「抽象」,「想像(イマジネーション)」などである.特に「執心鐘入」の場合は「暗夜」,「静寂」,「悲惨」を想起させる.
甲高い調子の若松の唱えからは,とても少年をイメージすることは難しい.また宿の女の唱えは,この場面には適当ではない,不思議な民謡調の流れを含んでいた.上述の言葉で特徴づけられる「組踊」の世界とは異なる,逆に具象的な状況を描き,演じていて,どうしても,「組踊」を聴いているとは想えない.観ている舞台は,観る者に「イマジネーション」を想起させない.
立ち方は役によって「吟扱い」を変えないといけない.特に女性が立ち方の場合は,この極端に難しい「吟扱い」を使い分ける技能を体得していなければ,演じるべきではない.
一方,座主の唱えは,とても座主のそれとは想像できない.ボリュームもあり,良く透過する声ではあるけれども,座主の唱えとしては「若すぎる」し,吟法を当たり前のそれに代えなければいけない.
立ち方全体として,残念なことに,「組踊」の世界に惹き込み,想いを巡らせるような台詞は聴けなかった.
全員女性の地謡にも,同じようなことがそのまま当てはまる.「組踊」以外の舞台においては,適当な調弦で,歌・三線はそれぞれ個性のある独唱をするかもしれないが,「組踊」という舞台では,あまりにも「形」からはみ出てしまっている.「組踊の地謡」として演ずるからには,甲高い声は抑えて,立ち方の吟法のように「男声」で歌えるように鍛錬を積まないといけない.
もっと具体的に述べると,「干瀬節」は甲高く,明白に「女声」で歌われているので,やがて乱されるであろう,冬の夜の静寂さを想起することは無理であった.一節は歌い出しに微かな音程の狂いがあったけれども,それは大した問題ではない.
「散山節」も声が甲高く,聴く者に,深刻で,宿の女の心が打ち砕かれていることをイメージさせるのは無理であった.「組踊」地謡としての出演は,「組踊」的な声で歌う鍛錬が出来ているものに厳しく限定すべきである.
この「執心鐘入」で演じられたような舞台を,「組踊」楽劇として再現するようなことはあってはならない.なんとなれば,そのような舞台が長く演じられた暁には,気がつくと,「組踊」と「琉球歌劇」との区分ができなくなってしまうであろうからである.
朝薫五番から後の多くの仇討物への特徴の変遷はあるけれども,「組踊」と言う楽劇としての輪郭は明確である.UNESCO世界遺産リストへは,朝薫五番に加え三番等で特徴づけられる楽劇としての「組踊」が登録されたのである.「組踊」の世界の輪郭を,永くくっきりと鮮やかに保たなければならない.
続けて,組踊「萬歳敵討」について評する。立ち方については,謝名の子,慶雲をはじめ,全体とし素晴らしく,堂々と演技は進んだ。一方,地謡は,声量もあり,同質の歌声を,弾むようなリズムで唱っていた.「組踊」を聴いた気分になった.
2011年05月25日
組踊公演二番 その4
組踊 「女物狂」
配役
人盗人 :平田 智之
子 :宮城 百望
母 :宮城 尚子
座主 :宇座 仁一
小僧1 :山入端 実
小僧2 :兼本 利輝
童1 :渡慶次 祥矢
童2 :照屋 あすか
童3 :宮城 永羽
組踊 「手水の縁」
配役
山戸 :東江 裕吉
玉津 :新垣 悟
志喜屋の大屋子:石川 直也
山口の西掟:呉屋 智
門番 :嘉手苅 林一
後見 :嘉手苅 幸代
配役
人盗人 :平田 智之
子 :宮城 百望
母 :宮城 尚子
座主 :宇座 仁一
小僧1 :山入端 実
小僧2 :兼本 利輝
童1 :渡慶次 祥矢
童2 :照屋 あすか
童3 :宮城 永羽
組踊 「手水の縁」
配役
山戸 :東江 裕吉
玉津 :新垣 悟
志喜屋の大屋子:石川 直也
山口の西掟:呉屋 智
門番 :嘉手苅 林一
後見 :嘉手苅 幸代
2011年05月22日
組踊公演二番 その3
最後に組踊地謡研修部とその他の研修部に共通する,今一度見つめ直すべき,構造的な問題点について述べる。伝統芸能や伝統技能の道に入る者は少なくとも10年以上の年月をその途中で過ごさなければならない。それも型,形式,フォーム,枠等と種々のことばで表現されるように,流派等の型を習う,あるいは型にはめる鍛錬を繰り返し,型の輪郭を明確に描き,歌うことができないといけない。またその道程の中で,古典芸能においても,型の中に限りない自由が在ることにも気付くであろう。
琉球古典音楽の継承・発展に貢献している組織は,会員数の減少を気にせず,型を習得させる間は,技術技能の習得と同じく,厳しく徒弟の型づくりに時を費やさなければならない。伝統芸能を継承していく才能があり,意志の固い弟子を育成しないといけない。
今回の公演における研修部員の地謡中の表情には,長い鍛錬を重ねてきた自信,あるいは気付き,あるいは悟りは見いだせなかった。まさにプロ意識が欠如している。現実として,普段そして研修中,指導者は厳しさを失い,研修部員達は自由勝手な研修に走る状況がある。演じる予定の組踊について,深く研修することもなく,工工四譜の表面を歌うことに精を出している。
組織の会員数を増やせば良いということでもない。会員にはプロを目指す者,趣味で芸能を習いたい者,色々あって良いのは至極当たり前である。ただ,組踊地謡研修部については話は別である。現状打破のため提言したい.(1)部員は歌三線の部で玉城朝薫の五番を一挙上演できるように,各支部から厳選された20名が適当であろう。(2)筝曲を担う部員数は5名に厳選して,大幅に減らすべきである。(3)太鼓,胡弓,笛の担当者を含めて精鋭部員30名以下にしたい。(4)部員を選出する時は,2,3曲の独唱させる,面談をする等して厳選したい。会員の趣味を深めるために研修部に招待するのではない。現在組踊地謡研修部の存在意義は既に失われつつある中で,野村流音楽協会と組踊地謡研修部は早急に革命的な構造改革をしないといけない際に来ている。
琉球古典音楽の継承・発展に貢献している組織は,会員数の減少を気にせず,型を習得させる間は,技術技能の習得と同じく,厳しく徒弟の型づくりに時を費やさなければならない。伝統芸能を継承していく才能があり,意志の固い弟子を育成しないといけない。
今回の公演における研修部員の地謡中の表情には,長い鍛錬を重ねてきた自信,あるいは気付き,あるいは悟りは見いだせなかった。まさにプロ意識が欠如している。現実として,普段そして研修中,指導者は厳しさを失い,研修部員達は自由勝手な研修に走る状況がある。演じる予定の組踊について,深く研修することもなく,工工四譜の表面を歌うことに精を出している。
組織の会員数を増やせば良いということでもない。会員にはプロを目指す者,趣味で芸能を習いたい者,色々あって良いのは至極当たり前である。ただ,組踊地謡研修部については話は別である。現状打破のため提言したい.(1)部員は歌三線の部で玉城朝薫の五番を一挙上演できるように,各支部から厳選された20名が適当であろう。(2)筝曲を担う部員数は5名に厳選して,大幅に減らすべきである。(3)太鼓,胡弓,笛の担当者を含めて精鋭部員30名以下にしたい。(4)部員を選出する時は,2,3曲の独唱させる,面談をする等して厳選したい。会員の趣味を深めるために研修部に招待するのではない。現在組踊地謡研修部の存在意義は既に失われつつある中で,野村流音楽協会と組踊地謡研修部は早急に革命的な構造改革をしないといけない際に来ている。
2011年05月22日
組踊公演二番 その2
続けて,組踊「手水の縁」について評する。立ち方については山戸,玉津役をはじめ,全体として素晴らしく,一体となって演技は進んだ。一方,地謡はあまりにも雑で,立ち方との共演にはなっていなかった。(1)「通水節」は高音部でツボが合わず聞き苦しい,(2)「仲順節」は歌いだしが揃っていなかった。(3)立ち方の出るのを待って,舞台下手をキョロキョロ見てはいけない。(4)「干瀬節」,「仲風節」,「述懐節」,「散山節」は,せっかく立ち方の作り上げた雰囲気を盛り上げるような歌・三線ではなく,全く格がついていない。(5)「子持節」は全体として十分歌いこなしていないし,立ち方と一体になっていない。(6)「東江節」(あーき)は他の曲節と比較して,良かったけれども,これ1曲節だけで大勢を挽回するには不可能であった。要約すると,この地謡グループで「手水の縁」を担うことはしばらくは無理である。慢心を諌め,演技において地謡グループが一体となれるよう,厳しい鍛錬を続ける必要がある。
2011年05月20日
組踊公演二番 その1
4月17日(日)国立劇場おきなわにおいて,野村流音楽協会組踊地謡研修部第28回自主公演が「組踊世界無形文化遺産登録記念公演」として開催され,組踊「女物狂」と「手水の縁」が演じられた。
研修部員全員の地謡による幕開け「柳節之踊」は今回の公演全体を象徴していたので先ずこれについて評する。(1)声楽に力強さがない,(2)歌三線の男声(20名)と女声(9名)の混声がうまく響いていない,(3)胡弓の音が強く,歌・三線と溶け込んでいない,(4)筝の音が弱すぎる,(5)三線の高い音のツボが乱れて不協和していた。指導者の助言が身についているとは思えない。互いに自他の音声が聞こえていないようだ。
次に組踊「女物狂」について評する。地謡グループが悪い方向へ影響与えたのであろう。(1)人盗人の荒事の印象が弱い,(2)眼が鋭すぎて,滑稽さが現われていない,(3)余裕と落ち着きがなく,固かった。(4)子役は唱えを含めて良く演じていた。(5)小僧一人の演技は全く良くなかった。(6)座主の演技だけが良く,際だっていた。立ち方全体として一体感が感じられなかった。立ち方に足枷をして,演技に入っていけないようにしたのは地謡の歌三線のレベルの低さであった。たとえば「子持節」については,(1)十分歌いこなしていない,(2)円やかさがなく声が出来上がっていない,(3)高音部で三線のツボがずれていて聞き苦しい,(4)十分な間合いが感じられない。他の二揚曲のうち「散山節」だけが素晴らしい声で歌われた。終幕の「立雲節」はバラバラで,まとまりがなかった。一言で要約すると,この地謡レベルでは未だ組踊「女物狂」の地謡を担うには至っていないので,声・三線の鍛錬をもっと長く続ける必要がある。
研修部員全員の地謡による幕開け「柳節之踊」は今回の公演全体を象徴していたので先ずこれについて評する。(1)声楽に力強さがない,(2)歌三線の男声(20名)と女声(9名)の混声がうまく響いていない,(3)胡弓の音が強く,歌・三線と溶け込んでいない,(4)筝の音が弱すぎる,(5)三線の高い音のツボが乱れて不協和していた。指導者の助言が身についているとは思えない。互いに自他の音声が聞こえていないようだ。
次に組踊「女物狂」について評する。地謡グループが悪い方向へ影響与えたのであろう。(1)人盗人の荒事の印象が弱い,(2)眼が鋭すぎて,滑稽さが現われていない,(3)余裕と落ち着きがなく,固かった。(4)子役は唱えを含めて良く演じていた。(5)小僧一人の演技は全く良くなかった。(6)座主の演技だけが良く,際だっていた。立ち方全体として一体感が感じられなかった。立ち方に足枷をして,演技に入っていけないようにしたのは地謡の歌三線のレベルの低さであった。たとえば「子持節」については,(1)十分歌いこなしていない,(2)円やかさがなく声が出来上がっていない,(3)高音部で三線のツボがずれていて聞き苦しい,(4)十分な間合いが感じられない。他の二揚曲のうち「散山節」だけが素晴らしい声で歌われた。終幕の「立雲節」はバラバラで,まとまりがなかった。一言で要約すると,この地謡レベルでは未だ組踊「女物狂」の地謡を担うには至っていないので,声・三線の鍛錬をもっと長く続ける必要がある。
2011年02月12日
主として,組踊に関するテーマを扱います.
これから,「組踊」に関するテーマについてBlogging を行います.特に,現在組踊が直面している種々の問題・課題をテーマにして行きます.